~佛教用語:坐禅4(自己観察のススメ)by koei~

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お釈迦さまの時代、カースト制度はもっと厳しく、
その中で、お釈迦さまは、人の絶対的平等を説かれた。

お釈迦さまの教団の中には、身分の低いカーストの方々もおられ、
その高弟の中にも、何人かこのようなカーストの方を登用されている。

私たちが日々の暮らしの中で、迷い・苦しむことといっても、
時代が違うとはいえ、ここまでのことはないが、
お釈迦さまの提唱された仏教が、
このような背景の中から生まれてきたことを知るだけでも、価値のあること。

しかし、いくら教を読み、仏教を修行しても、
心の中に残る虚脱感・虚しさ、そういったものは、未だ解決されてはいない。

おそらく、この後の人々にとっても、
その悩みは同じこと。

人によって、悩みも苦しみも、
その度合いはすべて違う。

その救いもまた然り。

己を救い、その苦しみから解き放つことの出来る存在は、
己でしかない。

仏教を学び、
禅を組んでも、
その中にある本質を見出していくのは、
教えを説く人でも、仏様でもない。

あなた自身なのだ。

静かに、足を組み、
己が呼吸にすべてを託し、
雑念と足のしびれと戦い、
ひと時、自身と向き合ってみる。

世の苦しみ・苛立ち・虚脱感・虚しさ、
このようなひきこもごものことを、
足を組み、瞑想をしても、
何も、誰も、解決してはくれない。

誰もが、何もしてくれないが故に、
叫びとは言わない叫び、嗚咽を正直に表わし、
苦しい・寂しい・悲しい・何をしていいか分からないと、
その姿をさらけ出してみるのも、禅のあり方である。

その在り様に、正しきものはない。

ただ、そのような己の姿に、
禅を通して接してみたとき、
己を正しく見定めて欲しい。

禅は、正しきものにあらず。
己が真実を映すのみ。

禅は、私たちの悩みをすべて解決してくれるわけではありませんが、
深く己を見つめようとする手助けには、なります。

そこに禅の意義と価値があるのです。

その価値に気がついたいにしえの賢人たちが、
長く守り伝え、手を加え、禅は体系化され、
今日のスタイルになったのです。

今や禅は、お寺に行かなくても、
坐禅のサークルやカルチャーセンターなどでも、
手軽に体験できるようになってきました。

一度機会がありましたら、是非ご体験ください。

皆さん、苦しくったって、いいじゃありませんか。

佛は、しっかりと見ていますよ。

そんな素直なあなたが、佛は好きなんです。